左利きと左右盲

 

 

左右盲

 

焦っている時や緊張している時など、

とっさに右左を判断することができなくなる。

10年くらい前までは自分のこの症状がなんなのかはっきりとわからず、単に頭が悪いだけだと思っていたが

左右盲」という言葉を知りようやく納得できた。

 

というのも、

不思議なことに、右左は判断できなくても

9時の方向」「3時の方向」と言うだけで間違えることはない。

「Left」「Right」といっても間違えない。

 

ただ、「みぎ」や「ひだり」という言葉に拒否感・恐怖感があるのだ。

 

「左右(さゆう)」はまだいいのだが、

「右左(みぎひだり)」というよく使う言い方は、

右が左にあることで混乱する。

(同じく「東西」という言い方も受け入れられない。

一回日本地図を思い浮かべないと、東西がわからない。)

 

 

 

左右盲で不都合なこと

 

不都合についてわざわざ挙げるまでもないが、特に困ること。

 

①車の運転が人並みにできない。左折と右折で混乱する。

 

②道案内をするのが苦手。道案内をされても右左を多用されると混乱してわからなくなる。

 

③視力検査は落ち着いて左右を確認できるのでまだいいのだが、

人間ドックで胃カメラを飲んだとき、ぐるぐる回りながら右左を指示され、

混乱して左右を間違えまくって自己嫌悪に陥った。

 

④劣等感

私が9時3時の方向を絶対に勘違いしないレベルで、

普通の人は左右がわかるのかと思うと、

それだけで尊敬してしまう。

逆に、9時3時を間違えるレベルの自分のヤバさに引いてしまう。

とにかく凄まじい劣等感である。

 

 

 

私が左右盲になってしまった原因

 

最近読んだ左利きにまつわる本では、

左利きというのは生まれつきのものだそうで、

小さい時に右利きに強制されると、脳の成長過程で混乱が生じてしまうとあった。

私もよくあるケースで、小さい頃に左利きから右利きへ矯正された。

 

まだ昭和の時代。

左利きはギッチョという差別用語で呼ばれ、

「ギッチョは恥ずかしいこと」と母親に刷り込まれた。

 

物心がつく前から矯正は始まり

箸を左で持てば、その度に叱責された。

そして、これもあるあるだが

左右について教えられる時には「お箸を持つ手が右」と教えられる。

それに混乱し、左右を間違える私に

母は私の右の手にあったホクロを見て判断すればいいと教えた。

そのホクロは10代後半くらいから薄くなり、

今となっては完全に消えてしまった。

ホクロが消えてしまった今でも、右左に焦るといまだにそのホクロを探してしまう。

 

 

 

右利きへの矯正の結果

 

文字を書くことだけは右利きに矯正することができた。

ちなみに、字は下手だし漢字の書き順もおかしい。

一方、絵を描くときは左手も使う両利きとなり、字は下手なのに絵は上手いといわれた。

 

散々どやされながら右手を使うことを強制されたが、

文字以外は箸を持つことも含め全て左利きから変えることはできなかった。

 

文字を右手で書く、ただこれだけの能力を得るために失ったものは多すぎると思われる。

 

英国王のスピーチ」という昔の映画で

英国王ジョージ6世の吃音の原因が、

左利きの矯正にあったのではないかというシーンがあった(真偽は不明)

私は吃音にはならなかったものの、

幼い頃に理不尽に叱責されたり行動を制約されることにより、

大人になっても見えない力によって

行動が制約されたりすることについて身をもって感じている。

 

 

まとめ

 

当事者として生まれ持った利き手の矯正は絶対にすべきでないと

声を大にして言いたい。

 

 

 

 

メールか電話か

相当昔に読んだホリエモンの本で

「仕事で電話をしてくる奴は迷惑」ということが書かれていた。

今となってはよく言われることだが、

メールで済ませられることは電話ではなくメールすべき

電話によって相手の仕事を中断させることになる

相手の時間を奪う

というような内容だったと思う。

 

ホリエモン以外にも同じ趣旨のネットの記事(ひろゆき氏とかDaigo氏的な人談)を何度となく目にした。

かなり古いトピックだけれど、これが世の中の流れなのだろう。

 

そこで私も仕事では、余程の急ぎの事情がない限り

メールで済むことはメールで連絡をするようにしている。

 

しかし、結果的に

電話で連絡していれば無駄なく仕事が済んだ、ということが最近あった。

(職場で取引先から問い合わせがあり、その問い合わせ内容について確認するため他の会社のAさんへメールをしてAさんからの返信を待っていたところ、取引先から「早く答えて欲しい」旨の電話があり、そこでAさんに電話で確認しようとしたがAさんは会議に入ってしまい、Aさんの会社は会議中にメールを見れない会社なのでAさんにすぐに確認できず、もしかしたら電話ですぐに確認すれば会議前のAさんに確認できたかも、という人類にとってどうでもいいケース)

 

こんなことがあり、電話がメインツールであるアラ還の上司に怒られた

わけではないけれど、

その上司はなんとなく不満そうに見えた。


メールよりも電話の上司からすると、

電話をあまり使わない私は

「直接のコミュニケーションを避ける現代病」

くらいに思われており、

その上司の顔には

「電話嫌いのオマエのせいで、無駄に仕事増えたよねー」

と書いてあるように見えた。

 

[いや別に電話が嫌いなわけではないんですよ

忙しい相手に悪いかなと思って、あえてメールしてるんですよ!]

エア叱責に対して、エア言い訳を考え消耗し、

 ホリエモンやらアラ還上司やら、両極端な他人軸に振り回され無駄にモヤモヤしてしまった。


結局、古い体質の会社や人はまだ存在しており

メールで済ませられることはメールで、という考えも通用しない場面がある。

当たり前すぎる結論だが、状況や相手によって適宜使い分けるしかない。


また同じ様な問い合わせなどがあったら急ぎかどうかまず確認して

急ぎの要件なら電話をするのも仕方ないのかなと

昭和の香りが残る職場で思った。

それだけでなく、仕事以外で人との交流がほとんどない今の私にとって、

仕事でも人と話せることはありがたいくらいだと思わなければならない。

ミソフォニア 音嫌悪 音恐怖症

人の出す音に不快感を感じる、

ミソフォニアという病名があるようだ。

 

自分がミソフォニアなのか否かわからないが

数年前から職場でなにかと大きな音を立てる人がいて

時々とても不快な思いをしている。

 

その日の機嫌なのか体調なのか、

ドタバタ歩く、

ガシャン!と物を投げるように置く、

引き出しやドアを勢いよく閉めたり、

なにかと大きな音を立てる人がいて、気になってストレスを感じてしまう。

 

大きな音を出して牽制している?

マウンティングの一種?

自分がイライラしてるからって、大きな音を出して人を不快にさせたいのだろうか。

 

とりわけ、女性が出す音に過剰に反応してしまう。

男性、とくに年配の男性と比較すると、

同じ女性なら共感してくれるだろうという思いが強くなってしまうのかもしれない。

 

もしかして、女性はかくあるべきという自分の中にある偏見なのだろうか。

自分の立てる音に無頓着な人は男女関わらず存在するはずなのに。

 

その本人は、大きな音を立てまくった後も、

悪びれもせず普通に話しかけてきたりするので

悪意はないのかもしれない。

 

(しかし、自分の出す音に無頓着そうな人から怖い話を聞いたこともある。

「嫌いな人の席の真横で、

威圧感を与えるために、わざと作業したりしてるんだよねー」と。

そんな意地の悪いことを実践したり

それをわざわざ報告するって、なんなの?怖い

怖くて夢にまでみたわ!)

 

考えてみると、仕事中であっても

工事現場の音、

道路を行き交う車の街の雑踏などは気にならない。

そこには他意が感じられないからだろう。

 

たいした音でなくても、

その人が故意に出しているのではないかと一瞬でも脳裏をよぎってしまうと

不快感、嫌悪感、恐怖感が募るのだ。

 

大きな音を目の前でたてられると、

PC作業をしていても手が止まり、一瞬目の前が真っ白になってしまう。

 

でも「人の考えている事はわからない」と

河合隼雄も(たぶん)言っていたけれど

目の前にいる人が何故その様な行動をとるのかなんて

わかる筈はないのだ。

 

恣意的に感じられる音も、

工事現場の音と思えばいいじゃないか。

 

イライラがマックスに達しそうになっても

「うるさいんですけど!」と相手にキレてはいけない。

(『金閣寺』で世界を変えるのは認識だと言った柏木に対して

世界を変えるのは行為だ!と言った溝口が最悪な結末を迎えたように)

 

キレる以外で、具体的な対処方法を身につける他ない。

 

①音が気になったら

席を立ち、気分転換にトイレに行く。

 

②断続的に音を出される時は、なるべくその場から離れて作業する。

 

③また自分の心身の状態も疑ってみよう。

バイオリズム的に過敏になりやすい時期とか

ストレスが溜まっているとか

前日に酒を飲んでいるから、調子が悪いのかなとか。

 

④大きな音を立てられたら、

びっくりした様子で、その人をじっと見つめてみるのもいいかもしれない。

その引き出し壊れてるんですかね?

その金庫の蝶番、壊れてるんですかね大きな音がしますよね?

とか話してみても良いかも。

 

⑤また、HSP気質であるから仕方ないとありのまま受け入れる。

 

ストレスが全くない生活、世界というのも

張り合いがなくなるし、

幸福も感じにくくなるそうだ。

 

ストレスが全くないとストレス耐性が弱まり、

どうでもいいこと、どうにもならない事、生い立ち、過去の出来事などにストレスを感じ始める。

認知症になりやすいという説もあるそうだ。

チラシの裏の雑記帳

5年前の自分で書いたブログを読み返してみて、

遠い昔のことのように感じます。

 

レジ袋の有料化など世の中が変わった部分もありました。

当時とても嬉しく、zerowasteの先輩方のことを思い出していました。

 

zerowasteとして過去にやっていたことでも

今実践できていないことも多いので、

昔の記事を見ると心がキリキリと痛みます。

けれど、zerowasteの精神は忘れていません。

 

といっても、書けることがなく何年も放置してしまったので

zerowasteからは離れて、

ここは雑記帳として生かしていければと思っています。

 

 

捨てる物にときめいてしまう場合、どうしたらよいですか

つい先日、食器を割ってしまったため、久々にネットで買い物をした。


その際、うっかりして

「簡易包装でお願いします。納品書等も不要です」

という一文を添えるのを忘れてしまった。


すると案の定、割れ物という事もあって、超丁寧で完璧な梱包で届いた。


おまけに明細書まで凝っている。

可愛いデザインの紙で、マグカップの形をしたクリップ付き。

 

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↑北欧風デザインのノートのように見えるが、ただの明細書である。あまりに“kawaii ”ので写真に撮ってしまった。

捨てるものなのにときめいてしまう場合、

konmari先生、どうしたらいいですか?


唯一、ゼロウェイスト的に嬉しかったのは緩衝材として新聞が使われていた事だ。

もっとも、日本の会社で日本から発送している筈なのに、何故かニューヨークタイムズ紙だった。

(プレゼントを包む際、日本の新聞だと怒られそうなのに、

英字新聞だと何故かオシャレ扱いになる謎現象の一種?)

 

私が購入したのは食器2点のみで、高いものでもない。

手間賃や、梱包材・良質な紙を使った明細書やらクリップ代を考えると、

利益っていくらになるのだろうと余計な心配をしてしまう。

と同時に、読売新聞なんかを適当に丸めた梱包で、明細書もわら半紙でいいから、数十円でも値引きしてくれた方が有難いぜ、と思う。

(値段だと他の店と差がつけられないから、企業努力なのだろうけれど)

ある時は、明細書がわざわざ可愛いデザインのクリアファイルに入っていたこともあった。

 

何はともあれ、

買った物以外にも、使わない上捨てるのに躊躇してしまう様な物が同封される危険があるのがネットショッピングあるあるだ。


ダラダラと書いてしまったが一行でまとめると、

お店への簡易包装をお願いする一言は忘れてはならないし、買い物するならばできる限り実店舗で買わなければと反省した。

 

ミニマリスト的 洗濯物の干し方

我が家では靴下やパンツ、ハンドタオルなどの洗濯物を干す際、

フレームに洗濯バサミがついた物干しハンガー/ピンチハンガーは持っておらず、

針金のハンガーに直接洗濯バサミで挟んで干している。

 

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(↑写真では、パンツ等は間引きしました)

 

貧乏くさいし乾きにくそう(嘲笑)と一蹴されそうだが、

スタイリッシュで省エネな干し方なのではないかと自負している。

 

場所をとる上、生活感溢れる物干しハンガーをわざわざ買わなくてもいいし、

針金ハンガー(from クリーニング屋)なので嵩張らない。

おまけに、洗濯バサミはステンレス製なのでほぼプラスチックフリーでもある。

 

実家では、プラスチックの洗濯干しを使っていたが、

洗濯バサミが経年劣化して本体から取れたり、洗濯バサミを持った途端にパキッと割れてしまったり、

太陽光に晒されて劣化し、なんとなく不快な臭いを放つプラスチックの嫌な思い出しかない。

 

〜余談〜

数年前、三島由紀夫の『潮騒』の舞台となった島を訪れたことがある。

一時間くらいで一周できるその小さな島の、民家と民家の間の細い路地裏を歩いた。

軒先きの干物や、図らずも人様の干している洗濯物が幾つか目に入ってしまったのだが、

同じ方法で洗濯物を干しているお宅があった。

妙な連帯感とともに、その気取らない素朴な感じが島の空気にも合っていて、

嬉しい気分になってしまった瞬間だった。

飲み会にはもう行かない、宣言

注)これは1ヶ月以上前にチラシの裏に書いた日記です。

ゼロウェイストとは直接関係ありませんが、学習能力が低いのでブログとして残すことにしました。

 

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年末と新年早々に後悔したこと、

飲み会に参加してしまった事だ。


誘いを毎回断り続けていると、何回かに一回は参加した方がいいよね、と日本人的感性で思ってしまう。

また、精神的引きこもりゆえ、たまには飲み会のような社交的な場で人と話した方が良いのではないかとも思う。

陰キャの主人公がどんな嫌な事に対しても、「イエス!」と答えなければならないという映画を思い出したりして(紆余曲折あって人生を切り開いていくというオチだったか?)、毎回断っている職場の飲み会に参加してみた。

 

しかし、実際参加すると後悔する事の方が多い。

喉元過ぎると忘れてしまうので、

飲み会の個人的デメリットをここに記す。


・煙草の副流煙で、身体に悪い

(年齢層の高い男が多い会合であり、喫煙者が多い上、感覚が昭和でストップしている)。

・酒を美味しいと思った事がほとんどない。

・セクハラ発言に耐えなければならない(感覚が昭和でストップ…)。

ミソジニー系の発言、既婚者の未婚者に対するマウント等、終始イライラする(無益な争いはしたくないので、何も意見せず心を殺している)。

・当然楽しいわけがない。

・そんなストレスフルな状況の中でも、心にもないおべんちゃらを言ってしまう自分が嫌だ。

・精神が高ぶってしまい、夜寝れなくなる。

・いくら思い返してみても、有益な情報・役立つ話などはほぼない。

 


メリット

・普段喋ることのない人と話せる(良い人も多い)。

・顔や名前を覚える。

・飲み会に出てこない付き合いの悪い奴・変人、というレッテル貼りをされずに済む。

 


…メリット少なすぎぃ!

もう二度と行かねぇ!!!と毎回思いつつ、2年に一回くらい参加してしまっている。


精神をすり減らすのはやめたい。